唄・三味線 ── 出逢いそして生きること


飯名 「まず縁切寺の話から。西松さんの演奏を群馬県の満徳寺(縁切寺)
で聴きましたが、西松さんの唄われている江戸唄とあの縁切寺という
場所は、意味がリンクしているような気がしました。」

布咏 「縁切寺は、江戸時代に男から離れて逃げてきたという場所ですね。
私の三味線唄は、女性の気持ちを唄ったものがほとんどなんです。女
性の気持ちって言っても、幸せな女性じゃなくて苦しい思いや辛い思
いを抱えた女性の心持ちの唄だから、とても縁の深い場所でした。」

飯名 「江戸唄や地唄というのは、1曲が1分半とか2分とか短いので、沢山
の曲を演奏しますよね。選曲が大変ですね。」

布咏 「演奏する前に、関心を持って面白く聴いて頂けるようにと思いながら
どのような企画や構成をしようかしらとあれこれ考える時が楽しいです
ね。今回は春だから浮きうきとするような唄がいいかしらとかね。それ
で解説書や歴史ものの本をめくったりしているときが一番充実した気
分ですね。そうするともう1度その唄に出会える。今まで何気なく唄っ
ていたものが自分の方に近づいてきます。それをまた皆さんに聴いて
いただける。そう思えるひとときがすごく楽しいです。」

飯名 「楽譜はあるのですか?」

布咏 「譜面に残っている曲は沢山ありますが、例えば地唄などは譜面がな
いのです。だから先生の唄をテープに録らせていただいて、それを耳
で聞きながら譜面におこし、その譜面を元に繰返し唄い込んで録音
し、それを先生に聞いて頂きながら譜面を直してゆくという時間のか
かる手作りの方法なのです。」

飯名 「ところで、西松さんはどういう風にして、三味線や唄を始めたのでしょ
うか?それから西松流というのは?」

撮影:清水 俊洋     
布咏 「私は師匠が何人もいました。、一番最初は6才の時でした。お稽古事
をしようという時に、近所に長唄のお師匠さんがいたので唄、三味線、
踊りを手ほどきをしていただいて、それを続けてゆくうちに叔母が小唄
の師匠をしていたので、私に小唄を勧めてくれたのです。そこにいらし
た粋なおじいさんが小唄の作詞作曲の講座に一緒に行かないかと言
われて、私は前から自分が作ったものが曲になって、それを唄えたら
いいなって思っていたので参加しました。そしたらその先生は豊後浄
瑠璃という関西の古い浄瑠璃で清元とか常磐津の原点となるような
富本節を教えている先生でした。」

布咏 「その頃私は30代だったかな。そういうものをやってる若い人がいない
から是非入門して欲しいと言われて富本節を勉強するようになりまし
た。そこに地唄舞の先生がいらして、私の声が地唄に向いてるんじゃ
ないかって言われて、西松文一という地唄の先生に引き合わせてくだ
さいました。文一先生は盲目でしたが私の唄を聞いて、私は弟子は採
らないがこの人だったら教えたいと仰ってくださる幸せな出会いがあり
文一師が最後の師匠になりました。」

布咏 「修行の折々に素晴らしい師匠に出会った、ということですよね。私は
なんでもやってみよう、やってみたいっていう思いが強いのです。だか
ら出会うたびに入門しました。そういう性格が幸いして色々なジャンル
の三味線音楽を勉強する機会に恵まれたってことですね。」

飯名 「西松さんは、舞踏や現代詩など様々なジャンルとのコラボレーション
がありますね。いろいろな師匠に出会ったことの影響もありますか?」

布咏 「方法はそうです。色々な師匠についたのも、自分が未知の世界を知
りたいという本来持ってる性格みたいなものが起因しています。師匠
だけじゃなく友人との出会いとか、違うジャンルの方との出会いや働き
かけがあったときに出来るかな?でもやってみようかなという性格が
色々なものに結びついたのかも知れません。若いときは本当に何でも
やってみよう。まずやってみて、やりながら考えればいいじゃない。と
いう生き方をしたいと思っていたので。」

                (2011年2月21日「アジール公演」リハーサルを終え 京都にて)
聞き手:飯名 尚人

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